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水俣と私たちの「距離」(1)

 

今と昔の東京湾近郊(イラスト:久保田好生)

今なお現代史に被害と闘いを刻み続けている水俣病。首都圏から遠いことで、被害発生期にどんなリスクを負わされたかを、同時代の東京湾汚染との比較で考えてみます。

 そして、現在の水俣や不知火海への交通アクセスもご案内します。


1. 東京湾の水質汚染・漁民闘争との比較

■ 豊かな海苔漁場だった 東京湾・浦安

 千葉県浦安市は、今はディズニーリゾートや高級住宅地として栄えていますが、市内の郷土博物館には漁業関係の展示が多くあります。浦安は、高度成長期までは、遠浅の海苔漁場・貝類の宝庫でもあり、それらの沿岸漁業で生計を立てている人が多くいました。山本周五郎『青べか物語』は、その古い時代の庶民の生活を描いています。東日本大震災で液状化が激しかったことは、浦安が埋め立てて間もない土地だということの証拠でもあります。


 そこに注ぐ江戸川は、東京都と千葉県の境を流れる一級河川ですが、その右岸、東京都江戸川区に製紙会社の工場があります。今はほとんど排水を流さないタイプの工場になっていますが、1950年代、そのパルプ排水が東京湾沿岸の漁場を直撃し、甚大な漁業被害をもたらしました。そして、六〇年安保闘争以前の1958年、漁民による激しい抗議の闘いがありました。このことは、都民や千葉県民でも、知らない人、忘れた人が多くいます。


■ 本州製紙江戸川工場による漁業被害

 では、どんな汚染と、どんな闘いがあったのか。宇井純『公害原論 Ⅱ』(亜紀書房)からその概要を記してみたいと思います。


*1958(昭和33)年3月 江戸川工場、セミケミカルパルプ工法完成。

  翌月から黒濁水流出、稚アユの遡上激減。

  下流の浦安では遠浅の干潟の海苔や貝類に被害。


同5月 東京湾漁民1000名、二百艘の海苔舟で江戸川を上り、

  工場裏に奇襲上陸、デモと団体交渉。


同6月 工場、漁民の要請で一旦は停止した排水を伴う操業を再開

  都建築局、排水停止を勧告。

  工場、一度は止めるも、また再開。

  廃水再開に憤った漁民700人が工場に乱入、

  投石、座込み。

 機動隊1000名出動、警棒で乱打し、

  漁民に負傷者多数。重症者含め漁民8名逮捕。


 同12月 江戸川事件をめぐる国会審議を経て

 「水質保全法」「工場排水規制法」

 (いわゆる水質二法/現在は水質汚濁防止法に統合)

  制定。


*1959(昭和34)年2月 前年からこの月までに会社と沿岸流域五漁協、

  補償協定調印。

同3月 工場に排水処理施設を設け、

  セミケミカル設備の運転を再開。


*1962(昭和37)年   水質二法に基づき江戸川流域の排水基準制定。


■ 不知火海沿岸漁民の場合

 東京在住の筆者は、当時刊行されたばかりの「週刊少年サンデー」「少年マガジン」を夢中で読んでいた小学2年生でした。本州製紙パルプ工場汚染事件もリアルタイムでの記憶はありません。浦安などの漁民の果敢な闘いを知ったのは水俣病支援に関わり、だいぶ経ってからです。そして浦安漁民の闘い自体には感動したのですが、同時代の類似の事件である水俣漁協や不知火海沿岸漁協の闘いと比較して、江戸川事件の展開に、羨望に近い複雑な気持ちが沸きました。それはなぜでしょうか?


 水俣湾と不知火海の場合、カーバイドや有機水銀など、多様な汚染が戦前から続き何度も会社との交渉が行われています。そして1959(昭和34)年には、まず水俣市漁協・次いで不知火海沿岸30漁協が、甚大な漁業被害に対して「排水停止」を求めました。石牟礼道子『苦海浄土 第一部』の最後にも描かれていますが、沿岸漁協の4000人は、12月の国会議員視察の際にチッソに団体交渉を求めます。しかし、それを拒否されて工場内に乱入することとなります。翌年25人が逮捕され、55人起訴・52人罰金有罪、という厳しい仕打ちを受けました。


 そして、漁民弾圧とともに、患者への超低額補償と「浄化装置の偽装」が行なわれ、事態は収束させられます。メチル水銀を含む排水の無処理放出が以後9年間もそのまま続き、被害を決定的に広げてしまいました。


■ 決着の違い 政府・国会や報道との「距離」

 東京湾汚染の決着が、不知火海汚染の決着に比べて「まし」だった点が、少なくとも四つあります。


① 決着が早いこと:事件勃発から補償協定まで一年。一応の排水基準制定まで含めても4年あまり。

② 排水停止・汚染除去施設設置:工場の対応が(いい意味で)ぶれている。チッソ程には通産省が支えなかったのかもしれないが、操業・排水停止や除去施設の設置をチッソは一度も行わなかった。

③ 行政の対応:都の建設局が停止勧告を出しているが、不知火海汚染には熊本県も国も無策のままだった。

④ 立法府の対応:すでに準備されていた規制が緩い法律ながら、浦安の事件後、国会審議を経て水質保全法・工場排水規制法が成立し適用された。


 水俣病の場合、メチル水銀という無味無臭の猛毒による健康被害が現役漁業のある海域で今も続いており、漁場が宅地や遊園地となった浦安と単純な比較はできません。

 しかし、報道や世論の注目、行政や国会の関与・・さまざまな面で、不知火海沿岸の人々は「首都中央から遠い」ということでリスクを負っていたことは確かです。

 そんな「距離」をどう埋めるかを、考え続けていきたいと思います。(続く)


久保田好生(東京・水俣病を告発する会/季刊「水俣支援」編集部)

    〈月刊 ロシナンテ社『むすぶ』連載 水俣病60年のQアンドAから転載。〉



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