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水俣と私たちの「距離」(2)鉄道

日本列島に暮らす私たちにとっては、東京―水俣の直線でも千キロという距離は、遠い。水俣や不知火海への旅案内も兼ねつつ、地理的な距離について考えていく。今回は鉄道編。

筆者が東京から熊本へ行く時に利用していた寝台特急「はやぶさ」(イラスト・久保田好生)

■昔の定番:寝台特急「はやぶさ」

 桑原史成写真集『水俣事件』(藤原書店)には、ともに故人となられた日吉フミコさん(水俣病市民会議会長/水俣市議)や石牟礼道子さん達が、東京駅に降り立った1970年の一コマがある。水俣から東京に直通で来る列車は、西鹿児島発の寝台特急「はやぶさ」だろう。熊本市内で打ち合わせてからの出立なら熊本発の「みずほ」だったかもしれない。まだJRでなく、国鉄(日本国有鉄道)の時代。今やほとんど姿を消したブルートレインである。


 大学生だった1970年代の私も、水俣へ行く時、何度も利用した。料金は覚えていないが、親のすねかじりのアルバイト学生には、少し辛い金額だった記憶もある。安く行こうと思えば、寝台は使えないが岐阜県の大垣までは乗車券だけで乗れる急行電車があったが、水俣まではその先の方が長い。その頃は各地に「水俣病を告発する会」があったので、支援仲間のアパートなどに泊まる手もあったが、食事をしたり電車の待ち時間を過ごしているうちに時間も費用もかかるので、寝台特急のほうがコストパフォーマンスは良かった。


 「はやぶさ」は、午後4時45分に東京駅発だったことを覚えている。自分が使った以上に、上京した患者・家族の見送りに、皆で何度もホームに入場券で入ったからだろう。丸の内南口のチッソ本社前に座り込んでいた自主交渉の1971~73年は、多人数の支援学生で「怨」と染め抜いた幟旗を掲げて見送りに行ったことを思い出す。そんな夕方に東京を発つと、関西を過ぎるあたりで日付をまたぐ。季節にもよるが、夜明け頃に関門トンネルを通って、水俣駅に降り立つのは昼過ぎ。たっぷり20時間以上かかった。


■現在は「肥薩おれんじ鉄道」の水俣駅

 その水俣駅は現在は国鉄・JRから第三セクターの「おれんじ鉄道」の駅に替わったが、八代駅からこの鉄道で水俣入りする場合は、進行方向の右側窓座席が絶対のお勧めだ。突然、進行方向右手に海が広がる。地元民以外が不知火海に初遭遇するのは十中八九このパターンだが、そのサプライズ感は半端ない。


水俣駅には改札が一つしかない。そして改札を出ると道路二つ向こうにチッソ水俣工場の威容。全国の鉄道をくまなく知っているわけではないが、駅前にドドーンと化学コンビナートが空高くそびえる風景は、他ではほとんど見かけない。言葉でなく視覚的に、ここが「チッソの城下町」だということを知らされる。工場の構築物は以前より減ったが、駅と工場が至近距離という街の構造は今でもリアルに見ることができる。


■工場前は患者座り込みの「名所」

 そのチッソ水俣工場前では、1956患者互助会、1971-73自主交渉派、1986緒方正人氏、1988チッソ交渉団・・・患者や家族の渾身の座り込みが何度も行なわれた。水俣病闘争のピークとなった川本輝夫・佐藤武春さんたちの1971~73自主交渉闘争では、チッソ水俣工場前にも、東京丸の内本社前にも座り込み現場があったので、その駅前から駅前へ、寝台特急「はやぶさ」一本で患者も支援者も、チッソも、行き来したことになる。


■陸の難所・三太郎峠

 外から水俣へのアクセスを困難にしてきたのが、水俣の間にある高難所「三太郎峠」である。八代からまっすぐに南下すれば鹿児島県と境を接する水俣市になるが、その間、芦北町や津奈木町の区間はリアス式海岸からすぐ山で、鉄道や道路が拓きにくかったという。これが、水俣を「陸の孤島」としている時代があった。しかしその時代は、漁業もさることながら、南北に長く波も穏やかな不知火海は、物資の運搬路・人の交通路としても今より栄えていた。


 今は「おれんじ鉄道」(もとは国鉄・JR鹿児島本線)も国道三号縁もトンネルを抜けながら不知火海近くを走っており、そのおかげで先に述べた通り不知火海の絶景も列車の車窓から堪能できるのだが、戦前の鉄道は、八代からは内陸に迂回し、人吉などを経て鹿児島につながっていた。


■九州新幹線の功罪

 「鉄道編」の最後に、九州新幹線にも言及しておかねばならない。博多から西鹿児島までが全通したのは東日本大震災と同じ2011年3月だった。以来、博多―水俣は一時間十数分という近さになった。新大阪からは博多乗り換えの要らない直通もある。但し、九州新幹線はトンネルが多いから景色にはあまり期待できないし、トンネルには高速道路の場合も含めて別な環境問題もある。



次の「道路編」ではその点についても報告する。 


久保田好生(東京・水俣病を告発する会/季刊「水俣支援」編集部)

                      



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