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水俣と私たちの「距離」③ 陸路・海路




■東京―水俣の陸路は二日がかり

定年退職後の近年、私は、ひとり芝居『天の魚』(川島宏知主演)のスタッフとして、上演機材を積んだワゴン車で東京・九州間を何度も往復している。白木監督と二人で朝の東京を発ち、東名・新東名高速道路を時速100Km/2時間ごとに15分休憩のペースで走ると、昼前に名古屋近辺を通過し、夕方までには関西に着く。


30歳代には中国自動車道のサービスエリアで車中泊し、まる24時間以内で水俣に着いたこともあるが、老人二人の交代運転では無理がきかない。幸い、夕方に大阪南港を発ち、瀬戸内海を航行して翌朝に門司港に着くフェリーがある。大阪→門司も、逆の門司→大阪も毎日二便が発着するので、これで山陽自動車道の陸路をショートカットできる。東京―水俣間は、直線で千キロ、道のりで千五百キロある。近年の往復費用は、高速代とガソリン代で、約十万円。前述のフェリーを二人乗車で使っても総額はあまり変わらない。


■九州の高速道路の便利と課題

門司港着の翌朝から九州自動車道を南へ走る。九州自動車道の本線は、八代から不知火海を避けるように内陸へ迂回して鹿児島に至るので、八代以南は南九州自動車道を使う。この道はまだ片側一車線だが、国道三号線とほぼ並行して九州の西海岸に沿って南に延伸中で、水俣市南部・袋地区のインターもできる。芦北・津奈木を経て水俣まで、大きなトンネルをいくつも通る。前号の鉄道編でも述べた「三太郎峠」の難所あたりを、すいすいとトンネルで抜けていき、渋滞気味の国道三号線を走っていた時代よりかなり早く水俣にたどり着く。

しかし、こんなに大きなトンネルをいくつも掘って、その土砂はどうするのだろうか? それが気になり始めた。


着いた水俣で山下善寛さん(元・チッソ第一組合)の話を聞くと、案の定、「初めに土砂ありき」と疑われる開発計画が水俣で進んでいた。水俣市が打ち出した「水俣川河口臨海部振興事業」は、さきの熊本地震で護岸にひび割れの入ったチッソ八幡プール跡地の堤防道路の修復が主目的とされていた。それ自体、チッソにも負担を求めるべきとの議論があったが、話が護岸堤防の修理から大規模開発へとふくらんできたのだ。


市が水俣川河口部の不知火海域の漁業権を水俣漁協から買い取る。そしてそこに工場団地を誘致するなどの理由で新たな土地を造成するという。企業誘致に具体的な見通しがあるわけでもなさそうだ。「トンネル土砂をそこに捨てるということですか」と問うと、「どうもそのようだ」と山下さん。


■カーバイド残滓投棄から始まった水俣病

 70年前の水俣を思い出す。カーバイド製造の残滓である石灰系の土砂が、水俣の海と川に投棄され、港は浅くなるし、川沿いには残渣プールに残渣が積み上がった。その廃棄物中に、同じ工程から出た無色無臭の猛毒、メチル水銀も含まれていて水俣病を発生させることがのちに判明するのだが、この場合も「初めに、捨てる土砂ありき」だった。


海は、陸地に住む人間の都合で今も理不尽に埋め立てられ続けている。不知火海の対岸・御所浦島の採石や採土が、沖縄・辺野古の埋立に使われることも危惧されていて、天草にはそれに反対する運動もある。


■長距離フェリーが活躍した時代

水俣への交通をめぐって、かつて活躍した海路についても書き留めておきたい。1970年代から、映画撮影機材を積んで、土本典昭監督や東プロ(のち青林舎)のスタッフが常用したのが、神奈川県の川崎港と宮崎県の日向港を丸一日で結ぶフェリーだった。日向からは陸路で水俣に入る。


1999年に亡くなった川本輝夫さんを偲ぶツアーとして土本さんが胎児性患者と付添の十数人を東京観光に招待した時にも、現地からの往路にこの船便を使った。瀬戸内海や不知火海などの内海と違い、外洋(太平洋)を進むので悪天候の時は揺れるのが難点だったが、前回述べた寝台特急「はやぶさ」とともに、水俣と首都圏を結ぶルートとしての功績は大きかった。1970年代後半から数年に亘って現地を多角的に調べた「不知火総合学術調査団」が水俣に行く時も、調査団メンバーと、以前シルクロードを走った色川大吉調査団長の「どさ号」(フォルクスワーゲン社の大型ワゴン)を、このフェリーが九州へ運んだ。


川崎―日向のフェリー航路は廃止のままだが、2021年7月、横須賀―門司(北九州市)を約一日で航行する東京九州フェリーができた。神奈川県在住の人には便利なフェリーとなりそうだ。


■昔の不知火海は高速輸送路

道路と自動車がこれほど発達する前は、海や川の方が「大量・高速」の輸送路だった。明治以降、戦後の高度成長期までは、波穏やかで南北に細長い不知火海は、漁業のみならず海運業でも活況を呈していたのだった。


チッソへ運ばれる石炭や石灰石も、水俣の山から切り出して筑豊へ向かう坑木の松も、この海を通して運ばれた。水俣の歴史を学ぶ上でも、陸中心の文明を見直すためにも、海と海路のことを忘れずにおきたい。


久保田好生(東京・水俣病を告発する会/季刊「水俣支援」編集部)


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